人生を助け破壊する諸刃の剣、依存症:僕らはそれに抵抗できない


「僕らはそれに抵抗できない 『依存症ビジネス』のつくられかた」という本が届きました。原題は Irresistible - The Rise of Addictive Technology and the Business of Keeping Us Hooked。主に情報技術がもたらす依存性に警鐘を鳴らした本です。

行動嗜癖:見過ごされてきた依存症の姿

長く依存症は、タバコ、アルコール、麻薬など、主に物質に対する依存を指していました。しかし、依存症は特定の物質に対してだけでなく、行動に対しても起こることが明らかになっており、その最たるものがSNSやオンラインゲーム等のスクリーンデバイスを通じて提供されるテクノロジ企業のサービスです。

行動に依存しても依存症だ、と言われると、人の呼吸すら行動依存ではないか、と思うかも知れません。しかし、依存症は単に特定の行動がやめられないことではなく「自分にとって害になるのに、本人の生態において欠かせないものとなり、自力でやめられなくなった体験に対する、過剰で機能不全な執着のこと」とされています。

なお、行動に対する依存…行動嗜癖は、SNSやオンラインゲーム等のテクノロジだけに対して起こるわけではなく、一定の条件を満たしたものに対して発生します。必要な度合いを超えて運動がやめられなくなる運動依存症もその1つです。

依存症の発生条件

依存症は、依存性がある物質や行為を摂取するだけで発生するものではなく、以下の条件が揃った時に発生します。

  • 満たされていない欲求がある
  • 短期的にはそのニーズを満たしながらも長期的には害をもたらす一連の行動がある
  • その結びつきを学習する
満たされない欲求がない状態で依存性を誘発しやすい行動や物質を強いられたとしても、依存症になるわけではない、ということです。

依存症を効率的にもたらすテクニック

依存症というのは人類のセキュリティホールのようなものと言えますが、これを効率的に突き、依存に引き摺り込むテクニックがいくつか知られています。

  • 連鎖的で継続的な目先の目標
    • 空のメールボックス
    • ウェアラブルデバイスが記録する活動量
  • 頻繁で予測できないフィードバック
    • ゲーム
    • VR
    • スロットマシン
    • スクリーンデバイスのインタラクティブなUI
  • 進歩の実感
    • ビギナーズラック
    • 巧妙にレベルデザインされたゲーム
  • 常にちょうどよい難易度
    • 巧妙にレベルデザインされたゲーム
    • ワーカホリック
  • クリフハンガー
    • 未解決エンドの連続ドラマ
    • ストリームサービスのビンジウォッチング
    • トニックに戻らない特定のコード進行を持つ音楽
  • 社会的相互作用
    • Instagram、Facebook、Twitter
    • オンラインゲーム
※ 書籍から若干表現を変えています
見てわかる通り、テクノロジ関連が非常に多いですね。テクノロジは人間とのインタラクションを自在に作り込むことができるため、これらのテクニックを非常にうまく扱うことができ、人を迅速に依存症に持ち込むことができます

「欠乏」と似た側面を持つ「依存」

少し前の記事で「欠乏の行動経済学」を紹介し、リソースが欠乏した人々がなぜ、どうやって転落していくのかを記したことがありました。金、物、人的関係が不足すると、目先のリソース確保に注意力を総動員してしまい、その他の物事や長期的な視野が消失し、将来の負担になる意思決定を連発した結果、将来のリソースが負担してさらに視野狭窄にはまりこんでいく…というものです。

依存症は、生理的なメカニズムは異なりますが、転落の経過は「欠乏」と似た…というか、大きく強化したような側面があります。欠乏は、備蓄や保険で常にリソースに猶予をもたせることである程度回避できましたが、依存症はそれだけでは回避は困難です。

依存症を回避する:行動アーキテクチャ

意志の力では依存症の回避や再発防止は難しいため、依存症をもたらすモノや行動を近づけないように環境の方を作り込み、自らの行動が自然に依存症から離れるように設計する、という考え方です。携帯に依存するなら持たない、ゲームに依存するならゲーム機を低スペックにする、といった例が挙げられています。

依存症を味方につける:ゲーミフィケーション

さらに一歩進んで、依存のメカニズムを目的達成のために取り入れる、というアプローチがあります。依存症を味方につけるわけですね。それが、行動をゲーム化するゲーミフィケーションです。ゲーミフィケーションには以下の3つの要素が重要と言われており、最初に大規模に流行したのはマイレージプログラムと言われています。
  • ポイント:行動によって獲得できる
  • バッジ:特定の行動やポイントの到達でもらえる勲章
  • リーダーボード:成績ランキング
ゲーミフィケーションを謳うサービスは私もこれまで何度も利用したことがあり、それらは決まって上記の3要素(PBL)を教科書どおりに取り入れていましたが、どれもさして効果的ではありませんでした。私個人としては、ゲーミフィケーションで重要な要素はPBLではないと思っています。ビデオゲームでPBLがあれば熱中できるなんて言ったら狂人だと思われますよ。PBLに一定の有効性があることは間違いありませんが…これは単なる枠組みであって、本当に重要なのはゲーム体験です。

受験のための原始的な環境設計

私はこうした行動変容のために環境を変える、というアプローチが比較的得意なのですが、はじめて取り組んだのは高校3年生の頃でした。

中高生の間のほとんどをゲーム依存症といって良い状態で過ごした私は、常にほとんど落第寸前の状態でした。深夜までゲームやラジオに耽り、授業はろくにきかず居眠りし、宿題はほとんど出したこともなく、時にはサボってゲーセンにたむろしていたわけですから、当然の成り行きです。

高校3年になっていよいよ追い込まれた時(お前は大学に行くのは無理だなと担任に言われました)、どうすれば自らの意思の弱さに関わらず受験に向けて学習できるか考え抜いた末に、兄弟が上京して空き部屋になった寝室を改造し、半自動的に学習に集中できる環境を作り上げることにしました。

作成にあたっては、自分の行動の癖や好み、起きてから寝るまでの1日の行動を分析し、最悪のモチベーションでもゲームや漫画に没頭することを防ぎ、かつ半自動的に決まった分量の学習に取り組むよう、部屋の環境を設計しました。明確なPBLもなく、今となっては稚拙なものですが、これが私の最初の行動アーキテクチャの設計でした。

まずは目標を適当な大学に仮決めし、自分に合った毎日進歩が実感できる学習方法を考案し、それに沿った学習計画を立て、必要な教材を選定し、1日あたりの進行量を計算し、学習効果を考慮して傾斜をつけ、進行度合いを可視化し、起きたらそのまま取りかかれるように教材を順に配置し、日々の目標地点に目印をつけ、合間合間に漫画やゲーム等の報酬を配置して気晴らしさせ、学習過程をゲームのように変えました。

さらに、進歩の実感と社会的相互作用の効果を効率よく得るため、初期は得意教科の学習を優先し、学内での成績を大きく上げることを狙いました。これにより、仕組みがうまく設計されているかをテストしつつ、成績上昇による進歩の実感を得て、友達に自慢することでモチベーションを引き上げることができます。仕組みの効果が確認できれば、後は他の教科と徐々に優先順位を入れ替えていけば良いわけです。

この仕組みは予想よりもうまくいきました。せいぜい中位程度だった得意教科の成績は2ヶ月程で常に上位3人に入るようになり、友人たちを非常に驚かせました。まぁ、その学校では得意な人が少ない教科でもあったのですが、私自身それを知った上であえてその教科を選び、半ば自分を騙していたわけです。

友人のモチベも上がり、相互に知識や理解を問いかけ合う賭けを交えたゲームが流行し、周囲でも急速に学習が進みました(教科縛りのしりとりや、勝者総取りの自作英単語テストとか楽しかったです)。気を良くした私は同じやり方を他の教科に展開し、比較的得意な教科を中心に全教科の成績を上げていき、春にはD判定だった模試の結果は、夏休みのあいだ学習部屋で没頭した効果もあり、秋から冬になる頃にはA判定になっていました。

この後も環境を設計して自分の行動を変容させる、というアプローチを多用し、最終的には仕事でも大いに利用することになりました。大人数がかかわる仕事を制御する立場の人にはごく自然に必要となる思考だと思いますので、生活や仕事に自然に取り入れている、という人は多いと思います。

情報技術はそこまで敵視されるべきものなのか

最後に…この本の全体的なトーンとして、情報技術を通じた社会体験…オンラインゲームやSNSを通じた体験は、本来の人間のあり方からかけ離れたものであり、完全に断つことはできずとも最低限にするべきだ、という思想が見え隠れしています。

しかし、私個人としてはこれにはやや疑問を感じます。携帯電話に依存したくないから携帯を持たない、ゲームにはまりすぎると嫌だから20年前のPCを使い続けて頻繁にフリーズする…といった生き方は、それはそれで非常に極端な生き方でしょう。

人類社会は今、情報技術が自然に存在する状態へと変貌を遂げている途上にあります。これが人類に幸福をもたらすのか、不幸をもたらすのか、誰にもわかりません。ただ、古い社会に慣れ親しんだ人が社会の変貌と人類の適応を快く受け入れ難いのは理解はできます。そして、この本はどうもそうした人たちの価値観を強く反映しすぎているようにも感じます。

農業が登場した時、機械が登場した時、ラジオが、電話が、テレビが、鉄道が、航空機が登場した時…彼らのような人たちは、これまでも似たようなことを言って社会の変化を拒んできたのではないのでしょうか?人類は情報技術が広く浸透する以前から既に、古の狩猟採集時代とは遠く離れた世界に暮らしてきました。情報技術はさらなる隔たりの1歩に過ぎません。

あるべき人類の姿がどういうものかなど誰にもわかりませんし、そんなものが存在するとも思えません。人類は、後天的に、広範に行動を変容させられる種であり、いつまでも同じ場所で立ち止まるのを良しとする存在ではありません。そうして向かう先が地獄であったとしても、前に進んで地獄に落ち、地獄にすら適応しようとするのが人類というものでしょう。

極端に嗜好性を煽り、社会に害を成す結果を生む仕組みは規制されてしかるべきでしょうが、技術そのものを疎んじる姿勢は少々行き過ぎではないかと感じました。

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