「なぜ今、仏教なのか」で脳裏に蘇った黒歴史
「なぜ今、仏教なのか」、原題は Why Buddhism Is True とかなり強い印象のタイトルだが、中身は日本語タイトルの方が近い。それなりにバランスの取れた本だったように思う。かいつまんでいうと、 仏教のある種の側面を進化心理学の概念でおおざっぱに説明した本 、という感じだろうか。 読み終わってみるとそのほとんどが暗に、また明に理解していたことだったように思う。サーチ・インサイド・ユアセルフの感想の末尾に少し書いたのだけれども、瞑想に関する私自身の経験や想像とほぼ同じことが書いてあった、そういう読後感だった。 サーチ・インサイド・ユアセルフ:瞑想は人をどこに導くのか サーチ・インサイド・ユアセルフ:瞑想は人をどこに導くのか www.burabura-investment.net 私は仏教にこれっぽっちも興味がなかったし、これまで瞑想やマインドフルネスと呼ばれるようなことに正式に取り組んだこともない。ただ、学生の頃にこの本にかかれた瞑想と近いことを経験したことがある。当時の私はそれで何かを得ようなどと思ってもみなかったし、自らに課すべきと考える道徳意識なども特に持ち込んでおらず、純粋な好奇心から実行していたのだけど…。単に、その頃知った「我思う故に我あり」のそれらしい説明が本当なのかどうか、実際に自分で試して確かめてみたかった、それだけだった。 奇妙な体験 高校生の頃、私は離れの部屋で暮らしており、高校3年になってからは受験のためにほとんど籠もりっきりになっていた。長い夏休みに入ると、昼の間は事前に計画した分量の受験勉強をし、それが終わると誰もやってこない隣室のベッドに横たわって、長い長い夜の時間を件の思考実験に費やした。 自分を構成するであろう要素を大きなものから些細なものまで1つ1つ取り出し、それが本当に自分を構成していると言えるのか吟味しては、そうではないと結論して自我から切り離す…そして、残ったものがどんな姿をしているのか観察する。そんなことを何日も、何週間も、何ヶ月も続けた。 無我相経の五蘊の話にいくぶん似ている ような気もする。そうして私は、この本でいうところの無我、空の理解に不完全ながらも近づき、知覚するようになったのだと思う。 デカルトは最終的に我はあると考えたようだけど、私には結局のところ我はあるのかないのかよくわからなかった。ただ、それま